【2009.3.4 旧ブログから筆者転載】
上に引用したのは、9月14日のエントリ「匂いの記憶@エルサレム 2.「悲しみの道」の果てに - Stabat Mater at the End of the Via Dolorosa, Jerusalem」の中で触れた、『出エジプト記』Exodus に記されている香油についての箇所です。
『出エジプト記』は、キリスト教世界においてはいわゆる『旧約聖書』Old Testament (注1)の一部として知られていますが、旧約聖書の冒頭の5つの書(『創世記』בראשית Bre'shiyth : Genesis、『出エジプト記』שמות Shemot : Exodus、『レビ記』 ויקרא Vayikra : Leviticus、『民数記』 במדבר Bamidbar : Numbers、『申命記』 דברים Devarim : Deuteronomy)は、キリスト教の成立よりも前、すでにユダヤ教世界において『トーラー』 תורה Torah (『モーセ5書』『律法』と呼ばれることもあります)としてまとめられていました。その意味で、ここでは「原典」としてヘブライ語版(マソラ本文)を参照 することとします。(注2)
第22節(כב)から第25節(כד)までで、神(יהוה YHVH)がモーセ(משה Mosheh)に伝えた「聖なる香油」(קדש kodesh : holy, שמן משחת shemen mishchah : anointing oil) の材料は以下のとおりです。(注3)
- קנמן-בשם khinnamown-besem : fragrant cinnamon
- קנה-בשם khaneh-besem : fragrant cane
- קדה khiddah : cassia
そして配合比率については、上記4種の重量について「500:250:250:500」、つまり 2:1:1:2 と書かれています。なーんだ、簡単!
...じゃ、ないんですねえ。このレシピに忠実に香油を作ろうとしても、実際にはいくつもの問題にぶち当たってしまう。
まず、上記材料のうち、没薬とシナモンとカッシアについては、現在も同じ名前で呼ばれている香り素材があるので、とりあえずよしとしましょう。しか し上記材料の3点目、"קנה-בשם " (fragrant cane) とはさて何であるか。これに関しては、calamus = ショウブ(菖蒲、Acorus calamus) と解釈する人々と、 cannabis = アサ属の植物、アサ(麻、C. sativa L.) と解釈する人々に分かれるようです。
次に、シナモンとカッシアの違いについて。現代のアロマテラピーやハーバルセラピーでもかなり混乱のあるところですが、大まかにいうと「シナモン」はヨーロッパや中南米で主に用いられてきた Cinnamomum verum, synonym C. zeylanicum を指し、「カッシア」は北米やアジアで用いられてきた Cinnamomum aromaticum、いわゆるチャイニーズシナモンを指す、と解釈される傾向にあります。しかし、同様の区分が『出エジプト記』の時代からなされてきたとはおよそ考えられません。では、このレシピの中に出てくるシナモンとカッシアはどう違うと見ればよいのか?
最後に配合比率ですが、これはオリーブオイルに漬け込む際の原材料の重量を示すものであって、各材料から採取された精油のブレンド比率ではありませ ん。同じ重量の材料を用いても、香りのよく浸み出す材料とそうでない材料では、仕上がった香油の中での香りのバランスは大きく変わってくることでしょう。
この「聖なる香油」問題は、しかし、というか、やはり、というか、多くの人々の関心を惹いてきたようで、中世に著わされたグリモワール(魔術書) The Book of Abramelin の中にこの出エジプト記の記述をもとにした魔法のオイル Abramelin Oil のレシピが紹介され、そこからさらにさまざまな人が自らの解釈でさまざまなブレンドを発表してきました。ご関心のある方は、どうぞ Abramelin Oil でいろいろと検索なさってみてください。
と、さんざん大風呂敷を広げたあとで、とりあえず今日のところは cane = calamus と解釈し、現在それぞれの名前で手に入るエッセンシャルをとりあえず同量ずつブレンドしたものを、オイルウォーマにかけてみました。
- ミルラ(没薬)精油
- シナモン精油(葉の水蒸気蒸留)
- カラムス精油
- カッシア精油(樹皮の水蒸気蒸留)
んー... ミルラとカッシアはドライな中に濃厚な甘みを隠し持っているという点で共通していて実によく合うのだけれども、カラムスの、良く言えばみず みずしい、悪く言えば青臭い香りと、シナモンリーフのシャープでスパイシーな、これも換言すればやや棘と癖のある香りは、どうもあまり相性が良くないよう な気が... なんて、恐れ多くも神様のレシピにケチつけちゃいけませんね。きっとブレンド比率とか材料とか、いろいろ問題があるのでしょう。そこで次に、ブ レンド比率を少しばかり変えて試してみました。
- ミルラ 4 : シナモン 1 : カラムス 1 : カッシア 2
こうすると、なかなかバランスのいい感じになりましたよ。でも、まだまだ手の加えようがありそうです。この続きはまた機会があれば、あるいはもしか するとある日しびれを切らした神様からの啓示がおりてくるかもしれないので、その際にはぜひ試してみとうございます。以上、3連休の合間を縫ってヘブライ 語聖書と格闘、なんてわが人生で最初の記念すべき try and error は、とりあえずこれにて終了!おつかれさんっしたー!シャローム שלום!
注1:『旧約聖書』という表現は、あくまでキリスト教世界における位置づけに基づくものであり、ユダヤ教世界では 『トーラー』 תורה Torah に『ネビイーム』 נביאים Nevim = Prophets、『ケトゥビーム』 כתובים Khetubim = Writings を加えた3種の書をもって正典 Jewish Bible とし、これらを(T、N、Khという頭文字をとって)『タナハ』 תנ״ך Tanakha または『ミクラー』 מקרא Miqra と呼んでいます。ただしこれらの呼称は日本語ではほとんど定着していないため、『旧約聖書』にかわるユダヤ教世界の用語として、日本語では『ヘブライ聖 書』『ユダヤ教聖書』といった言葉があてられる場合が多いようです。こうした経緯から、このエントリ以降、ヘブライ語の原典(マソラ本文、מסורה, The Masoretic Text = MT)を参照する場合には『ヘブライ聖書』という用語をあてることとします。
注2:『ヘブライ聖書』のマソラ本文は、イスラエルのマムレ・インスティテュート http://www.mechon-mamre.org/ など、いくつかの団体が管理しているサイトに掲載されています。当該サイトに掲載されているマソラ本文にはマムレ・インスティテュートの著作権が設定され ていますが、「ごく短い引用なら構わない」とのことですので、冒頭に『出エジプト記』 の該当部分だけ(30:22-25)を引用させていただきました。
注3:ヘブライ聖書のマソラ本文には、子音の発音の変化を示す記号(ダゲシュ)と発音時の母音を示す記号(ニクダー)が付されていますが、ブラウザによっては表示が崩れてしまうため、このブログではやむを得ずダゲシュとニクダーを省略して表記しています。ご了承ください。

[gandha]