抽象名詞にも、匂いはある。いや、匂いのあるものもある、と私は思っている、というべきか。
その言葉を耳にしたときの、あるいは口にしたときの、それとも強く心に引っ掛かりながら口には出せなかったときの、無意識ながら感じていた何ものかの匂いがあれば、まずはそれが思い出されよう。またそういう最大公約数的な匂いや臭気が外部に実存していなかったとしても、ある言葉に向き合った時の鼻腔のまわりの血流や温度がきゅっと変化する感覚を繰り返し体験する中で、それが時に、あたかもなにか香りのあるものを嗅いだときの感覚となんだか似ている、と感じることがある。
...こうして文字にしてみると奇妙な感じだが、本能的な感覚の話というものがそもそも合理的なせりふ回しと相性が悪いのであって、それは私のせいではない。のだ。たぶん。
では練習問題。「責任」の匂いは?
...今の僕にとってそれは、たとえば古い建物の裏、日陰の庭の土や草地の、しんねりと湿った空気。あれを再現するには、ティートゥリーの匂いの裏側に潜む(気づいている人は気づいているはず)、あの「黒カビ臭」が役に立つ。それから、湿った土といえばパチュリ。暗い土の中で、バクテリアがながいあいだ何かを食べて呼吸をし暮らしつづけてきた、ミクロで不可視な、しかし確実に生命がそこに連綿と存在つづけているその証、その香り。またはジュニパーベリーの、青い葉と実をぎゅっと爪でおさえて滲み出してくる、むっとした青臭さと、薄青緑か薄紫にすきとおった不思議な陰りのある透明な香気と、もしかすると別の命につながるかもしれなかった何ものかを指先でつぶしてしまったことに対する、曖昧な罪悪感。
なぜそうなのかは、よくわからない。いったいどうしてそんなつまらないウソをついたの、小学校のころ先生に叱られてどこを見ていればいいのか分からず、ただ古びた校舎の床や中庭の薄暗がりをぼんやり見ていたからだろうか。あるいは、勝手に追い詰められた気分になって何もかもを置き去りに(といったところで小心者の僕が置き去りにできる「何もかも」の選択肢なんて、いつだってさして多くはなかった)して逃げ込んだバーで一つ覚えのジントニックを何杯もあおっては、階段の下にあるせいで天井が斜めになっている狭いトイレとカウンターを馬鹿みたいに行ったり来たり、そのトイレに輪をかけて所せましと並んでいた古い映画のポスターや映画雑誌の山の、その向こうの壁のどこかに間違いなくコロニーを作っているであろう黒カビが放つ、あの匂いの記憶のせいだろうか。
...まだ話したいことがある気がするけれど、今日はここで終わりにしておこう。続きはまた、今度。

[gandha]