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2009年6月20日 11:54 PM

六月の清滝、夕闇にホタルを見る

今にも一雨きそうな6月の土曜の夕暮れ、午後7時過ぎの丸太町通りをひたすら西へ向かう。嵯峨野あたりに差し掛かると、昼間は観光客で賑わっていたのが嘘のように、ヒトの気配はもうほとんどない。窓の外の空気はさすがに夏日だった昼間よりも格段にひんやりして、飽和限界ぎりぎりまで湿気をふくんだ風が6月の森の匂いとどこかに咲くアカシヤのねっとりした香りにまるで軽く酔ったかのようにふらふらと車内に流れ込んでくる。

そんな嵯峨野を北西に抜け、清滝の入口にあるあの1車線だけの狭いトンネルの手前で(いわゆる「心霊スポット」としても有名な場所ですね。そりゃあんな場所にあれば何もいないはずはない。また7月31日の愛宕山千日まいりの日には午前6時以降だと全車ここで折り返しになるので、見覚えのある方も多いと思います)、上りと下りの交互通行をとりしきる信号が赤だったため、車を止めて数分間の信号待ち。

やがて信号が青になり、トンネルを抜け清滝の渓谷沿いの道を進むと、突き当りに赤い誘導棒を手にした人たちと大きな提灯が見えてくる。それはホタルの時期だけ地元の人が用意してくれる臨時の駐車場、200円の駐車代をおばちゃんに渡してヘエオオキニと挨拶したら、車を置きダッシュボードの懐中電灯と念のため傘を持ってさあ出発。駐車場横の橋に差し掛かるとさっそく数匹のホタルがお出迎えしてくれてつい小さな歓声をあげてしまうけれども、今回目指すところはもっと先だからずんずん進んでいく。

まず駐車場から1本目のコンクリートの橋をわたったところで左折。そのまま歩くとやがて左手に赤い欄干の橋が見えてくるので、その橋を渡ると今度は右折。そうやって徐々に上流側に進んでいく頃にはだんだん闇に目が慣れて、あの独特の冷たい翡翠色にひかるホタルの群れ飛び明滅する光跡がそこらじゅうに見えてくる。


最後に3本目の橋を途中まで渡って上流側を向いた欄干にたどりつけば、そこが今回の特等席。まだ薄明かりの残る空は正面の山が遮ってくれて、両岸の民家の明かりも渓谷沿い数百メートルにわたって程よく両岸に茂る木立ちのおかげで視野にはあまり入らない。水面をかすめるホタルの光をにじませてうつす渓流と、橋からさらに上流へ数百メートルつづく奥行きのある湿気た闇は、遠く近く舞い飛ぶホタルたちを観るのにこの上なく理想的な天然のステージになる。

だんだんと濃く重くなる闇に、着いたばかりのころにはまだはっきり見えていたはずの山の稜線があいまいさを増してくる頃、ホタルの群舞はその夜最初のヤマ場を迎える。同じ木立ちや草むらにつどうホタルの明滅のタイミングが揃うのはよく知られたことだけれども、そんな木翳のつらなる渓流沿いでは、たまに奇跡のようなことが起きる。渓流をわたって別の木立に移ろうとするホタルたちの仲立ちのおかげで、まったく別の木につどうホタルの群れの明滅がそろい始めるのだ。

結果、水無月の夜の渓流から湧き立つ水蒸気でできた闇のグラデーション越しに、はるか彼方のかすかなホタルの光から、橋の上に立ってそれを眺める私たちの目の前をかすめ飛ぶ眩しいほど鮮やかに輝くホタルの光まで、あるときは手前から奥へ、またあるときは奥から手前へ、無数のホタルが見事な光のウェーブを織りなし、そしてさらに稀にはまるで視界に入るすべてのホタルたちが示し合わせたように一斉に明滅して、そのたび橋に集う人々は驚嘆の声をあげ、あるいはその総毛立つような壮麗なる幽玄さに声さえも奪われて黙って立ち尽くすのである。


私の生まれ育った町屋エリアからわずか車で20~30分のところに、こんなにものすごい光景を目にすることのできる場所があったとは。でもそれを知らずに30と数年を過ごしたことに、不思議に後悔はなかった。もしこれを幼いころから毎年見ていたら、あの橋の欄干から見える風景がいかに稀なるかを、おそらく私は気づかぬままだっただろう。実際、京都よりももっと街明かりが少なく、田んぼや水路のはるかに広がる町にホタルを見に行ったこともあったのだけれど、そういう場所ではホタルがあちこちに分散して光るので、ここ清滝のように視野の一方向に凝縮された群舞を見るという機会はまずなかった。

こうして清滝のホタルたちが、時にシンクロし時にランダムに明滅を繰り返す様を、また時には流星と見まがうような輝きと速度で音もなく頭上を一直線に飛んでいく様を小一時間ぼんやり見ていると、そこに集合体としての「情念」のようなものを感じないわけにはいかなくなってくる。それはホタルたち一匹ずつが何を思って飛ぶかではなく、かつては紛れもなく「世の果て」であった嵯峨あだしの念仏寺のさらに先の渓谷でこのように群れ飛ぶ様を目にし、私たちと同じように言葉をうばわれながら一瞬にして「世界」とか「永遠」とか「わが身とこころの行方」とか、そういうものに思いを馳せたであろう数百年分の先人たちがホタルの群舞に託したまま世を去った、そんな彼らの「情念」のほうである。

アカシヤとクチナシのむせ返るような甘い匂いのする夜闇のなかで見た、翡翠色に光る情念の結晶体の光跡。それは「まぶたの裏」や「脳裡」とかの後天的・大脳皮質的な記憶に新たに追加されたというよりも、本能とかある種の「先天的記憶」とでも呼ぶべきものたちをつかさどる脳中枢にきわめて近い場所で、昔から待ち受けていた何かをようやく今回の人生、あるいはそれを生きるよう運命づけられて今まで命脈を保ってきたこのカラダに付随した肉眼でもって、ああやっぱりこの世界でも紛れもなく、その風景はこれほどまでに美しかったよ、そう「確かめる」ことができてなんだかほっとした、そんなある種ちょっと不思議な手触りの感慨に包まれながら、私は清滝の夜闇を後にしたのだった。

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