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2009年8月23日 11:30 PM

汀にすなる声もなし - 親不知22時、気温16度

夏空に聳える峰の頂に透きとおった山の秋が人知れず降り立つころ、海の秋もまた北からの長い旅の果て、波打ち際に遊ぶ子供たちの声が消えた岸辺へと、こっそり静かに錨をおろす。夜の上越JCTから北陸道を西に進んでしばらく、親不知(おやしらず)IC近くの道路脇にぽつんと佇んでいた電光掲示板には、「風速0メートル・気温16度」との表示が出ていた。

車の窓ガラスを薄く開けると、時速数十キロの夜風のはしくれが次々に入ってきては、耳元や足元でくるくるっとちいさな渦を巻き、クスクス笑うようにしてまた外に出ていく。半日ひとりで運転しているとそういうことですら何だか面白く思えるもので、しばらくそのまま走りながら風の匂いに耳を傾けてみた。

しかしそこには存外、もう夏の森の匂いもなければ、潮騒の匂いもしなかった。


今思えばあの時、あの場所で私がたしかに感じながら言葉に置き代え難かったその匂いというのは、山風でもなく海風でもないけれどもそこにたしかに吹いていた、夏風でも秋風でもない風、のものだったのかもしれない。

どの国でもだいたい世界は天と地とに分かれ地は陸と海とに分かれ、南と北の半球で半年ズレたりしながらも地球の中緯度地域で季節といえば春夏秋冬の4つに分かれるものだと相場は決まっている。私自身だって普段はそう信じて特に疑うこともないし、今になって実はそうじゃなかったといわれたのではヴィヴァルディも紫式部も立つ瀬がない。しかし、では世界の実存のすべてを分類学的な概念枠組みのひとつふたつで完全にすくいとることが可能かと問われてああそうともさと胸を張り答えるなんて勇気もまた、少なくとも私は(普段優柔不断な私が、今回は珍しく断言できる)これっぽっちも持ち合わせていない。


たとえばそれは陸と海との境目、地図の上にくっきり描かれている「海岸線」。それを本物の汀(みぎわ)に立ってこの目で見たり手で触れたりすることは未来永劫、誰にもできない。あるいは夏と秋との変わり目、年ごとに行きつ戻りつしては私たちを一喜一憂させる回り舞台。あれが万人に文句を言わせないタイミングできっぱりくるりと180度回転する年なんて永遠に来なさそうだと私たちは薄々気づきながら、そのことを誰も、口にしない。

それともたとえばまたそれは、ススキの群れをとっぷりと浸して日の出とともに消えてなくなる夜霧や月の淡くひんやりした光、あるいは夜明けに夏枯れた草むらにこっそり迷い込んでは、あの甘く優しい乾草のような匂いを誰のためということもなくただ低く静かに香らせる朝露、そんなふうに最初から「ある」と「ない」との曖昧な重なりをたどるように漂う半透明なものたち、而して同時に何より私たちの心のでこぼことして所々すり切れてしまったおもてへと、確かに静かに、寄り添ってくれるものたち。


(親不知子不知が浜に 親をしらずと泣く子らは もとより親をしらぬに非ず 荒磯に己が手をひきて 我が名を呼びし親にいま 二度相見えずと知りてこそ そは何処かと泣きぬべし なれば磯辺に非ねども 何時か離別の来るらむを 世の人の子は知りとてか 汀にすなる声もなし)

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