2009年9月アーカイブ

スズメバチが仲間と連絡をとる際に「特定の匂い成分の組み合わせ」を用いていることが明らかにされたのは、2003年8月7日付けの『ネイチャー』誌に掲載された玉川大学小野助教授らによる論文の中でのことであった。

当該論文はその中で、一匹が攻撃対象に吹きつけると他のスズメバチが一斉に攻撃に加わるという「攻撃開始命令フェロモン」が、天然の果実や人工の香水にも含まれることのある3つの揮発成分(アルコール系の2-ペンタノールと3-メチル-1-ブタノール、エステル系の1-メチルブテル-3-メチルブタノエート)の組み合わせにより構成されていることを検証している。これらの物質は単体では特に影響を及ぼさなかったものの、3種類を混合して濾紙に含ませ巣の前に置いたところ、数十匹のオススズメバチが攻撃をはじめたという。

... と、なれば。

2009年9月29日 11:00 PM

孤絶の姿を借りた怠惰に未来はない。もっともらしい静謐の中、やがてひとり青黒く腐れ落ちるそれが残せるのは、せいぜい鼻をつく悪臭に顔をしかめ早足で通り過ぎる人々の足音くらいだろう。

しかし狎れ合う群れに自らを連ねまいと、他人と同じ烙印(しるし)をその身に刻むことを拒みながら同じ世に生きる道を選んだ者の上には時として、愚かなり世に二つと見ぬ独善と狂気、恥知らずこそ汝が名ぞと誰かが一度指さし嗤ったのを合図に、冷笑や唾棄や怒号が雨あられと降り注ぎはじめるというのもまた、この世に例しのないことではない。

そんなもの合間を縫って駆け抜ければ勝ちだろと強がってみせところで、いつしか自らの内なる怒りと痛みがひりひりと熱を持ち、何かのはずみであがった火の手が胸の天井を焦がしはじめたら、幸か不幸か先はもうそれほど長くない。やがて炎がその喉笛に迫る頃、何かがようやく耳元まで下りてきて、そっと囁く。

 

― 無辺の闇の中にあってひとり、光の速さで遠ざかる輝きを放つ者は、その輝きの力強さを自らの眼で確かめることができない。沈黙の泥に足をとられながらひとり、音の速さで離りゆく叫びをあげる者は、その叫びの届く遠さを自らの耳で確かめることができない。

― しかしその闇と沈黙のむこう側で誰かが今この時も、いつ届けられるかすら分からないその輝きや叫びを眼を凝らし耳を澄ませて待っているかもしれないという可能性を、いいやそんなヒマでお人よしな奴なんかこの世にいるわけないんだ、期待するだけつらくなるから絶対に信じないんだ、と頑なに否定する者には...

2009年9月28日 06:00 PM

近代化の名のもと猛スピードで変容を続けていく明治期の日本を、Salto Mortale (直訳すれば「死の跳躍」)という表現をもって評したのはドイツ人医師ベルツであった。 30年近くにわたって日本に住み日本人の妻をも迎え、多くの日本人医学生を世に送り出したベルツの言葉を、字面通りの表層的な日本批判に過ぎぬと見る人は、おそらくあまり多くないだろう。

無粋ながら私なりの解釈をあと少し敷衍するなら次の通りである。一方で明治日本は、近代という新しい時代の中を欧米列強と肩を並べ生き抜こうとするなら、江戸という時代の終焉とともにそれまでの日本を支えていたさまざまな制度や価値観を一旦みな取り払い、新たな国家をその枠組みの根本から作り上げる必要があると考えた。それはすなわち古い日本の「死」と引き換えに新しい日本の「誕生」を得ようとする作業であって、いうなれば「死からの跳躍」こそが明治初期の日本の行動を律する原理であった。

他方でベルツは、近代日本が実際には近世以前の日本の歴史の中で培われてきた固有の文化や価値観、換言すれば「日本を日本たらしめる根幹の部分」を色濃く継承しながらそれに無自覚であることを、外部者ならではの視点から看破していた。 ゆえにベルツは、日本がそのような無自覚な状態のままに表層的な変革を追い求め、背景となる歴史などが大きく異なるはずの西洋の文化要素をお構いなしに手当たりしだい接ぎ木をするが如く受容し続ければ、たとえそれが短期的には急速な躍進をもたらしたように見えたとしても、長期的には日本社会が本質的な部分において取り返しのつかない混乱や破滅へと向かいかねない、という危惧の念を持つに至った。さればこそベルツは Salto Mortale という言葉を以て、日本が「死に至る(可能性を含む)跳躍」に踏み切ろうとしていることを指摘し、警鐘としたと考えられるのである。

... さて、と。

日本には永く引き継がれてきた「香りの文化」の伝統がある、と言う人がある。 だがそれは、一か所の不連続点も持たぬまま、なめらかに継承されてきた文化であったのか。 それとも、近代の曙あるいはその他の時期に、多少なりとも不連続な「跳躍」を経験したのか。 そのような跳躍の経験があったとするなら、その周囲に何らかの「死」は横たわっているのか。 だとすれば、それは跳躍の契機としての死だったのか、それとも跳躍の結果としての死だったのか、

偶然とはなかなかに手ごわいものである。私が人生で初めて新韓国国立中央博物館の3階まで辿りついたその時、最初に目に飛び込んできたのが「新安香爐(香炉)」の企画展であった。はやる胸をおさえポスターをよく見れば、展示期間は2008年10月28日から2009年9月28日と書いてある。あと1週間訪韓がずれていれば私は一生、この部屋にある出土品たちと出会う機会がなかったかもしれない。


Exhibition "Shin-an Hyan-no", National Museum of Korea

東アジアの香文化に関心を持つ方なら周知の通り、

植民地時代に朝鮮総督府が置かれた建物(現在は撤去済み)でかつて展示を行っていた韓国国立中央博物館が、漢江のほとり二村の広大な敷地へと移転・開館して、はや数年が経つ。昨年はじめて新博物館を訪れながら時間が足りず悔しい思いをした私は、今回こそと出張の空き時間を何とかやりくりし、2日に分けて念願の再訪を果たすことができた。

ソウルの地下鉄4号線イチョン駅2番出口を出てまっすぐ東に進むと、左手に博物館へとつづく道が見えてくる。敷地内にある大きな池を時計回りにゆるやかに辿れば、左に劇場、右に展示館を擁する巨大な博物館の本館が姿を現す。


National Museum of Korea - Gateway and Main Building

展示館の入口をはいったところにあるアトリウムから建物の東端までを貫く中央通路は、すべて天窓から空が見える吹き抜け構造になっている。展示館は3階建てといっても各階の天井がとても高いため、天窓は通常のビルなら5~6階に相当するくらいのところにある。かくして展示館を訪れた者は入口をはいったその瞬間から、柔らかな光と静謐さに満ちた巨きな空間に抱かれ、一種独特の非日常感・高揚感とともに展示室へと向かうことになる。


Atrium and Corridor

さてこの博物館、1階部分(考古館・歴史館)の見どころと言えば、

2009年9月13日 02:37 AM

'09.9.14改訂

わずか十数分前まで、夜空には凛と白く明るい半月がひかり、そのすぐ間近にはスバルやオリオン座もはっきりと一緒に見えていた。

そう、普通なら近くの星は見えなくなるほど、夜空にひかる半月は凛と白く明るかったのにもかかわらず、だ。


ところが、さっきざあっと大粒の雨が降ってきたと思ったら、また止んだ。今、月は見えない。でもしばらくすれば、きっとまた雲の間から顔を出す。

ついさっき、ざあっと大粒の雨が降ったところなのに、だ。分かっている、そしてそうであればあるほど、雨に洗われた初秋の夜空は澄み切って、月も星もますます明るくかがやくことだろう。


ここ金沢には数年前に一旦たたんだ店を今年ふたたび開けた知り合いがいて、

痛々しく爛(ただ)れたような朝焼けが、今回生まれて初めて東北道自動車道の北のはずれまで無駄に走ってきた私を、何も言わずに迎えてくれた。それを右手に見ながらさらに龍飛岬にむかって国道280号線を少し走り、陸奥湾が見渡せる堤防に出たころには、空は淡く濁った薄青色の雲に覆われていた。


dawn at Aomori IC, 5:03 am


stale-blue sky over Mutsu-wan, 5:44 am

波打ち際につどうカモメたちを軽くなでながら通り過ぎていった風はさすがにひんやりとした肌触りで、しかし匂いはあまり強く感じなかった。強いて言うなら、

'09.9.11改訂

上信越道八風山トンネルを群馬側から長野側へと抜けたあたりで、カーナビの地図の隅に緑色の小さなエンピツ型アイコンが2本並んでいるのが見えた。以前、長野県佐久市のとあるお寺と、その近くの温泉旅館の前を通りかかったときに、自分で登録したポイントだ。私は車の窓を薄く開け、仄甘くも軽く乾いた信州の夕風がさあっと流れ込んできたのを確かめてから、小さな深呼吸をした。


かつて私は夏が来るたび、長野の北佐久郡望月町(現・佐久市望月)を訪れていた。大学のころ所属していたサークルに、毎年この町の小学校や分校を訪れ出前コンサートをするという有志企画があり、それに何回か続けて参加していたからだ。今はこんなに面倒くさがりやの私が、なぜそんなイベントに乗っかることに決めたのか、時既に20年ほど遡る頃の話ともなればどうにも思い出せない。しかし、当時のこの町の方々や子供たち・親御さん方にいったいどれほどお世話になったか、それははっきりと覚えている。

まず、寝泊りや舞台稽古、炊事などはすべてお寺さんの宿坊を借りて過ごした。朝から午後まで汗だくになって稽古をした後は、歩いてしばらくの所にある温泉旅館さんまで毎日お風呂を借りにいった。地元のみなさんからは自炊用にと毎年採れたてのキャベツやトマトを山のように届けていただき、出前コンサートを終えた後は仲良くなった近所の子供たちとホタルの飛び交う田んぼのあぜ道で花火をしたり、商工会の方に地元のお料理や地酒をしこたま振舞っていただいたり...

だから私は、数年前偶然に長野県南部に用事ができて、生まれて初めて自分の車で長野入りを果たしたとき、仕事を終えてまっさきにこの町を目指して走ってきた。学生時代、この町を訪れる企画では上級生になっても one of them のままだった私は、結局最後までこの町のどなたにもはっきりと自分の口から感謝の気持ちを伝えることができなかったような気がして、そういえばそのことがこの町をサークルの皆と一緒に最後に訪れた日からずっと自分の中でひっかかっていたようにも思えてきて、なんだか矢も楯もたまらず、走ってきた。


でも、たどり着けなかった。

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