「論文は遺書である。」
研究者として最も致命的な、しかも長いスランプに陥っていた私に、敬愛する同志がくれた一言だ。
論文と呼ばれる体裁で文章を書いて、どこかの学術雑誌に掲載してもらうか、本として出版し、世に問う。この一連の作業ができなくなることは、研究者生命の事実上の死を意味する。実際、5年や3年といった一定期間に何本の論文を書いたか、その数が昇進や年間の研究費を左右する重大因子として加わったのはもう何年も前のことだ。やがて月給もそれで変動する可能性があると聞く。こうなれば研究者生命どころか、人間としての生命にも直接かかわってくることになる。
もっとも、研究者生命に死をもたらす要素が業績数の減少だけとは限らない。ああ、次は何を書けばいいんだ、あれでもないこれでもない、そんなことをぼんやり考えながら運転するなんてのは、飲酒状態なみの危険運転である。それで自分だけが電柱なんぞにぶつかって死ぬならまだしも、誰かを傷つけてしまったらそれこそ大変だ。
だから2編続きの論文の前編だけを投稿しながら、後編は永遠の遺稿となるなんて可能性はいくらでもある。もしそうなったら、落ち合うはずの相い方を心細く待ち続ける前編が、(公証人役場で手数料を払って法的に効力を持つ「ちゃんとした遺書」を書き残すなんてマメなことをする余裕があれば別だが)私が公式に世に残しえた最後の文章、ということになる。
生きて書いた最後の文章は全部遺書だというつもりはない。しかし、本当は私はこういうことを考えていたんだ、あと少し時間があるなら次にこれをしよう、その次にはあれをしようと思っていたのだけれど、もし私がそれを成し遂げることができなければどうか誰かこの先に続く道を歩いてみてはくれまいか、そういうメッセージをとっぷりと注げる論文は、こうしてみると実に遺書によく似ている。
まあ次があるさ、いや次を書かなきゃいけないなら、今回の論文で全部書くと次のネタがなくなるぞ、ならば何を次にまわすか... なんて余計なことを考えるから、次の手前の今の論文に何を書いていいかわからなくなる。そんなバカなこと、もう金輪際やめよう。次の矢を頼みにするなと豪(えら)い兵(つわもの)が言いましたとさって国語の教科書でも習ったじゃないか。わが恩師、高校の英語の先生も Now or Never っていつも言ってた。今書くものがすべてなんだ。そうかこれがあの人の遺作なんだねえ、誰か一人でもそういって開いてくれたらもうけもの、だったら私は、
遺書を、書きに。さあ、今日も研究室に出かけよう。

[gandha]